【南牧村民俗資料館】 戦没者名簿から考えたこと

先日見学した南牧村の民俗資料館には、昭和以前の村の産業や生活にまつわる多種多様な資料が展示されています。その中で、ふと目にとまったのが、第二次世界大戦の戦没者名簿。この村(昭和の大合併以前は尾澤村だった)から戦争に出征して、帰らぬ人となった住民の名前が記録されています。

南牧村民俗資料館の一角に展示された戦没者名簿

名簿を見ると、まず、こうした山村からも大勢の住民が戦争に招集され、戦地へ旅立ったことがわかります。ここに記載されているだけで123名いるので、現在の村全体では単純計算で300名から400名はいたのでしょう。非常時とはいえ、働き盛りの男性がこれだけいなくなれば、村の産業を維持するのは相当困難だったはず。残された女性や子どもたちは、男性の分まで懸命に働き、畑や仕事(養蚕やこんにゃく栽培)を維持しながら帰りを待ったと思われます。

私の自宅の大家さん(91歳)から聞いた話では、当時、働き盛りの男性がいっぺんにいなくなると集落が持続できなくなるので、技術や知識を有する長老的な立場の男性を一人は残したとか。そして、その立場にいた大家さんの父親は、出征せずに村に残り、男性が抜けた非常時の村を取りまとめたそうです。国家総動員とはいえ、そうした立場にいる人が、あえて村に残ったからこそ、戦後の復興が早く進んだのかもしれません。

次に、出征した名簿の死亡場所を見ると、さまざまな戦地に配属されたことがわかります。

世界各地で戦ったことがわかる記録

パラオ、ニューギニア、フィリピン、ビルマ(ミャンマー)、ペリリュー、サイパン、中国など、当時の日本の戦線の広大さが実感できます。この村から初めて軍用機に乗り、遥か遠い南方の島に行った人は、明日をも知れぬ命の中で、何を思い戦ったのでしょう?
よく見ると、戦争が終わった後に亡くなった方も多くいます。もう戦う必要はないのに生きられなかった方は、相当無念だったと思います。

ちなみに、私の実家の長野では、満州の満蒙開拓団に行った方が大勢いたそうです(私の父から聞いた話)。NHKのTVドラマでも放映された山崎豊子氏の小説「大地の子」では、主人公の家族は信濃郷という集団に属していたことが描かれていました。こうした出来事が、まだ親の記憶も生々しい70数年前に実際に起こっていたことを考えると、今の平和な社会が信じられない気がします。

村から出征した人たちの資料や物品が展示された部屋

最後に、私の大家さんは、終戦の時は15歳で、静岡県で農兵隊として軍事訓練に参加しながら援農をしていたそうです。援農を終えて村に戻った時に終戦となり、そこから農業を本格的に始めたとか。戦後に物資が不足していた時代は、都会から食べ物を求めて物々交換に村を訪れる人が多かったことも聞きました。

現在の村は過疎化が進んでいますが、当時は都会よりも地方の農村や山村の暮らしが豊かで、住民も多く養えるくらい経済力があったのでしょう。そうした戦後の地方で生まれた人たち(団塊の世代)が育ち、都会に出て日本の復興と発展を担ったことを想像すると、時代の移り変わりの激しさを感じます。

南牧村民俗資料館の概要はこちら