渋沢栄一ゆかりの古文書を解読(市川さんに聞く)

現在、NHKで放送中の大河ドラマ「青天を衝け」。ドラマ終了後に放送されている「青天を衝け紀行」の中で、かつて渋沢栄一が南牧村に来たことを示す史跡として、大日向地区の「馬喰い(うまくい)サツキ」が3月に紹介されました。サツキ保有者の市川圭三さん宅には、それにまつわる古文書が保存されています。

TVで紹介されたのを機に、市川さんは古文書の解読を専門家に依頼しましたが、このほど結果が戻ってきたそうなので、市川さんに聞いてきました。

「馬喰いサツキ」の保有者、市川圭三さん。ミラーの背後に隠れているのがサツキ。

「馬喰いサツキ」のエピソード

「馬喰いサツキ」とは、渋沢栄一が若い頃、藍玉の行商で南牧村に来た時のエピソードを残しているサツキ(樹木)と石碑のこと。現在、村内の大日向地区に住む市川圭三さんが、所有者として管理しています。

そのエピソードとは、南牧村(当時は月形村)で紺屋を営んでいた市川圭三さんの先祖、市川嘉兵衛さん宅を栄一が訪れて商談をしている間に、庭につないでいた馬が鉢植えのサツキを食べてしまったというもの。栄一はお詫びのしるしに、「愛染明王」の文字を紙に書き、自分が偉くなったら名前を書きに来ると言って渡しました(結局、栄一は来なかったそうですが…)。

その後、嘉兵衛さんの家ではサツキを鉢から畑に植え替えて、栄一が書いた文字を刻んだ石碑を横に建てたそうです。TVで紹介されてから、現地には栄一ファンが何人も訪れ、市川さん自身も上毛新聞で取り上げられました。

NHK「青天を衝け紀行」の紹介内容

解読した古文書

今回、圭三さんは3点の古文書の解読を専門家に依頼したそうです。

1点目は、栄一の父親から送られた藍玉取引の文書。これには、藍玉の納品が遅れることが記されています。取引相手にまとめて通知しているので、近隣の取引先がわかります。(吉井町、福島町、一宮町、下仁田町など)

また、右上の割印からは「血洗島 渋澤市郎右衛門(栄一の父親)」という文字が読めます。

取引文書(右)と、解読文(左)。文書の右上には、「血洗島 澁澤市郎右衛門」の割印が読める。

2点目は、藍玉取引の手形2通と、年貢皆済の証文。手形とは、今で言う約束手形で、藍玉の納入と代金の支払いについて書かれています。証文とは、村役人(名主)に年貢を納めた受取証文です。

3点目は、代官所から送られてきた文書で、その年の年貢をどれだけ納めるかを村に示す書類。今で言う課税通知書です。村の公文書として村役人が持ち回りで管理していたそうで、冒頭に「熊倉村」の文字が読めます。(現在の南牧村熊倉)

これを発行した代官の中山誠一郎氏は、江戸時代末期に侠客の国定忠治(赤城の山も今宵限りで知られる)を捕獲した方です。

ちなみに、今回、大河ドラマ紀行で紹介されたきっかけは、昔の記事「渋沢栄一翁と馬喰いさつき」をNHKのディレクターが読み、村の教育委員会に電話で問い合わせて、市川さんにたどり着いたとか。よくぞ見つけたものですね。

「渋沢栄一翁と馬喰いさつき」は、昭和10年11月1日発行の「上毛及上毛人」に掲載されました。以下は、市川さんに見せていただいた復刻版で、昭和49年6月1日に上毛新聞社から発行されています。

大河ドラマ紀行で取り上げられたきっかけの「上毛及上毛人」

この本の要約は、こちらに詳しく書かれています。

市川圭三さんに聞く

「馬喰いサツキ」の思い出について、市川圭三さんにお話を聞きました。

ー栄一がここに来たのは1860年(万延元年)、栄一が21歳の時のようですね。実際に市川さんのご自宅に入ったのですか?

私の家は築200年以上と聞いているので、おそらく、この家の中に入って商談したと思います。だから、馬がサツキを食べたのに気づかなかったのでしょう。ただ、鉢植えを全部食べられたわけじゃないので、残った木を土に下ろしたようです。当時は家の玄関先が道路でしたが、その後の拡張工事で何回か植え替えたと聞いています。私が小学校低学年の頃は、今の場所にサツキがありました。

道を挟んで市川さんのご自宅(左)と、馬喰いサツキ(右)。現在は道路が拡張されて家の玄関が隠れているが、栄一が来た当時、玄関先の低い位置を道が通っていたそうだ。

ー栄一が家に来た話は、聞かされていましたか?

子供の頃に、父から聞かされました。「愛染明王」の石碑も父が記念に建てたもので、私が子供の頃には既にありました。それと、私の家では代々俳句をやっていて、「琴風」という号を名乗っていました。栄一も「青淵」という号を名乗っていた縁で、亡くなった時には句会を開き、「馬喰いさつき保存句集」を出したそうです。

発行人の欄には「市川玄三(琴風)」の名が!

ー市川家では、代々紺屋を営んでいたのですか?

いえ、紺屋は栄一と商談した嘉兵衛の代までです。その後は酒屋になり、私が生まれた頃は養蚕と農業をやっていました。

市川家に残る染め物の型

ーTVを見るまで、まさか南牧に栄一の史跡があるとは知りませんでした。今になって取り上げられた感想は?

いや、驚きましたね。こんなに大きく取り上げられるとは。今になって世の中に出るとは、思いもしませんでした。

ー私も栄一が青年時代に上州や信州のあちこちに商売で足を運んだことは知っていましたが、まさか南牧村(当時は月形村)にも来ていたとは知らず、驚きました。約160年前に、栄一がこの地を訪れたことを想像すると、歴史のロマンを感じます。色々と教えていただき、ありがとうございました。(以上)